top of page

光海

幼い頃に市民球場のグラウンドに寝転がりながら、光海に抱かれた夢のような時間を今でも鮮明に覚えている。

両親に連れられて訪れたのは、それが最初で最後だったと記憶している。それでも毎年、夏が来るたびに、夢中になってベランダから遠く小さくきらめく光海に向けて双眼鏡を覗き込んでいた。

そしていつの頃からだったか、カメラと三脚を携えて様々な光海を巡る旅に出かけるようになっていった。

最初のうちは夢中になってレリーズしていたものの、いつしか何か違う物足りなさを覚えるようになっていた-。

数ある写真表現のうち、超秒露光によって時間を凝縮させる行為ほど、心を揺さぶるものはない。

静止しているものは、ただ静かに存在し、動体は、その形態を激しく変容させる。鉄の塊は溶けた蝋の如くやわらかく歪み、掴めない光は一瞬の存在を証明するかの如くに、その軌跡を克明に記録する。

露光間に人為的ブレを印可する行為によって静止体は相対的に動体と化し、更に次元拘束型のブレを動体に対し印可すると、人間の知覚を超越した複合変容体となって具現化する。

時には太古の針葉樹の如くに鬱蒼と生い茂り、羊水に浮かぶ胎児の鼓動を海馬のシナプスと重ね合わせ、光海をさまよう流星の如くに、深海を漂う水母となる。

とめどもなく紡ぎ出される巨視と微視との混交によって、いつしか観るものに生命の営みについて静かに問い掛けてくる。

bottom of page